鋏 (上)

 女は走った。
 息が切れて、足がもつれても、走って走って走って――
 逃げる。

 道は舗装されていないただのあぜ道だ。
 靴で走るなら楽だろう。
 しかし、女が履いているものは下駄。なおかつ纏っているのは着物であった。
 洋服に慣れていた者がそのような格好で速く走れるはずも無い。

 それでも女は走った。
 結い上げられた黒い髪は乱れ、美しい着物の合わせが肌蹴ても構わず走り続けた。

(このままゲートが開く時間、やり過ごせば……逃れられる……!)

 息が切れて、肺が思うように酸素を運ばなくなっても、女にあったのはその思いのみ。

 なぜ、逃げるのか。
 それは今まで押し込めてきた感情が爆発した上での行動だった。

「――どこへ行く」

 かけられた言葉は唐突だった。
 どうにも息が詰まり、少しばかり休憩と足を止めたその瞬間。

「主がお前を探している。戻るぞ」

 振り返れば男が一人、立っていた。
 紫色のカソックに、纏う金色が揺らめく。
 鈍い色の髪の間から覗く目は、まるで女を刺し殺さんばかりにまっすぐ睨めつけていた。

「!!」

 最初からそこにいたのではないか。
 そう思わせる位、男は自然に立っていた。

 へし切長谷部。
 それがその男の名だ。
 女は長谷部を見るなり身を翻し駆け出した。

(掴まれば終わる!)

 なんとか逃れようと懸命に走るが、思いとは裏腹に女の足は限界を迎えていた。
 それもそのはず、女はこの数ヶ月外に出ることを許されていなかったのだ。
 籠の鳥のように部屋に囲われていた女の足は、今やがくがくと震えている。
 走るというよりは歩くと言ったほうが当てはまる、そんな女の前に長谷部は容易く回りこんだ。

「手間をかけさせるな」

 白い手袋を纏った死神にも見える手が伸びてくる。
 女は避けようとしてそのまま、ぐしゃりと座り込んだ。

「みっ見逃してください! お願いします! お願いします……!!」
 
 ほぼ土下座のような格好になりながら女は訴えた。
 しかし、

「わかっているだろう。逃げられるわけがない。……大人しく戻れ」

 長谷部が片腕を引っ張れば、当たり前に女は抵抗した。……弱弱しい力だった。

 長谷部は鬱陶しそうに来た道を戻ろうと翻る。
 女が胸元に手を入れる様を見もせずに。

「!?……な」

 振り向いた時にはすでに遅かった。
 刺されたのだ。
 視線を下に下ろせば長谷部の白いシャツがじわじわと赤に染まる。
 思ってもいなかった反撃に腹を押さえれば鋭い痛みが走り、長谷部は顔を歪めた。

「お、前!!!!」

 女は鋏を持って震えていた。
 裁断用の大きめな鋏。その先は血で塗れている。
 言うまでも無い。長谷部の血だ。

 籠の中で手慰みにと『誰か』がくれた裁縫箱。
 その中に入っていた鋏を女は隠し持っていた。
 いや、隠していたのではない。
 鋏を使えばできたというのに、自決することも暴漢に突き刺すこともできず、ただただお守りのように女は持っていた。

 その鋏を女は『初めて』使った。

「あ、あっ……う」

 明確な言葉も出せず真っ青になりながら、ぶるぶると震える手をそのままに女は走る。

「待て!」

 長谷部にとって幸運にも傷は見た目に反してそれほど深いものではなかった。
 つまり、容易く女は捕らえられた。

 女は両手を掴みあげられながら叫ぶ。

「嫌だ! 嫌だ嫌だ嫌だ! 私は私のいたところに帰りたいだけなのに! どうしてあいつなんかと! 離せ!」

 女は首を振りながら、まるで適わない力の差に、悲鳴によく似た抗議の声を上げる。

「うるさい! 抵抗するな!」

 血塗れの鋏を取り上げようと長谷部が両手首を締め上げれば、女は呻いて涙を零した。
 ばたぼたと流れる涙に構わず長谷部は更に力を込める。
 女はぎりっと歯を噛むと長谷部を睨みつけ、呪うように吐き出した。

「……あんたなんか最低の刀だ。……あんたの主もくずだ。ここのやつらは皆クソだ! 神様の癖に!」

 長谷部の手から力が抜ける。
 しかし、その一瞬が過ぎた後怒号が女を襲った。

「お前が! 来たからだ!!」

 顎を掴み上を向かせると、先ほどよりも強いそのまま折ってしまいそうな力でもって長谷部は女を締め上げた。

「お前のせいで主は変られた! お前さえ、いなければ……!!」

 呻くことも許されず、女は苦しみにもがく。
 
 ぎりぎりとまるで鬱憤を晴らすかのように力を込めると、長谷部の手に涙が伝う。
 雫は手袋にじんわりと染みを作った。
 女と長谷部の間にまるで潤滑油のようにじっとりと広がっていく。

 それに長谷部が気づいたのは、左手袋がほぼ濡れたころだった。

「私だって、好きでこんなところに来たわけじゃない……! わかってたなら絶対に来なかった! ……なんで、なんで! なんで!! ……帰りたい」

 ぐしゃぐしゃに顔を歪めて泣いていた女は、長谷部が手をはずすと崩れ落ちてむせび泣く。

 ――女は、ごく普通の一般市民だった。
 いつも通り通勤し、仕事を終えて帰る。
 普通の日を普通に過ごす。
 ただそれだけの平穏な毎日であったのに、その日だけは普通であることを許さなかった。

 何がきっかけだったのかはわからない。
 どこから変っていたのかさえも曖昧な状態で、女は見知らぬ土地に放り出されていた。

 親切な世界ならば丁寧に教えてくれるだろう。
 しかし世界は女に何も与えはしなかった。
 古い城下町のような趣のある建物が並ぶ通りに、一人だけ異質な物が混じる。
 それに誰も気づかない。
 当たり前だ。
 建物は古くてもそこにいる人々は多様な格好をしている。
 女は容易く埋没したのだ。

 道を、地名を、時代を。
 女は幾人にも尋ねて歩いた。
 だが誰に聞いてもすべて答えがバラバラで要領を得ない。

 困り果てたその時に現れたのが長谷部の主だ。
 親切な男に天の助けと思った女は幸いとその男の本丸へと足を踏み入れた。
 しかしいざ蓋を開けてみれば、その男は親切でもなんでもない、ただの屑だった。

「だれもたすけてなんかくれない。かみさまだってたすけてくれない。叫んだって泣いたって声すらかけない。本当に最低」

 そうでしょう。

 最後は吐息だけで、女はかすかに笑った。
 その視線の先には血濡れの鋏が地面に横たわっていた。

 女が鋏を見ていることに気づいた長谷部は、二度と手にさせないよう踏みつけながら吐き捨てる。

「甘えたことを抜かすな。そこまでいうならなぜ死なん。さっさと死ねば楽になっただろうに」

 女はゆるゆると顔を上げた。
 その顔は涙に濡れ、先ほど掴まれたところが不自然に赤く染まり、痛々しい限りだった。
 しかし、黒い髪が垂れかかるつぶらな瞳はなぜか輝いていた。
 なんの穢れも知らないような、さも今気がついたといわんばかりなその視線はまっすぐに長谷部を射抜く。
 長谷部の心臓は、ずくりと嫌な音を立てた。

「なら、殺してよ」

 長谷部は想像していたとおりの言葉に女を睨みつけるが、次に女の繰り出した言葉に僅かばかり目を見開く。

「貴方にとってみれば簡単でしょ。いつも不愉快そうにしてたじゃないですか!」

 解り切ったことだった。
 逃げ切れることがないことくらい。
 それでも女が逃げたのは、己からすべてを奪おうとしている男へのせめてもの抵抗だ。

 なら、最後まで抵抗してやる。

 女はとてもいいことを思いついたと言わんばかりに笑った。
 上げた頬につられて涙がぼろりと滴り落ちる。

「何の」

 事だ、と続けることを長谷部は許されなかった。
 女が声を出して笑ったからだ。

「白々しい! いつも目が合ってたじゃない!!」

 女はよほど面白かったのか、声を抑えもせずに笑う。
 ひとしきり笑い終えた後、

「変態」

 睨みあげながら女は言った。

Posted by aco