鋏 (中)

 事の発端は些細なことだった。
 主が女を連れてきた、ただそれだけの話で終わるはずだった。
 
 女は言うなれば迷い人だった。
 ただの人である上にどこから来たのかもわからない女の境遇に同情した主は、大層世話を焼いた。
 現世を懐かしんでいたのかもしれない。 
 主が手ずから世話をすることで女は割合早く本丸に馴染んだ。
 ともすれば刀剣とも仲睦まじく過ごすようになり、本丸は春が来たかのように穏やかになった。
 短刀と笑い合う女はまるで花の様だとどこかの脇差が言ったものだ。

 しかし、それはある日を境に変った。

 主が女を寝所に連れ込んだのだ。
 ある日突然、なんの前触れもありはしなかった。

 夜を真二つに裂くような悲鳴の上がった夜を知らない刀剣は居ない。
 その夜から、女は表に出なくなった。

 そして晴れやかな顔をして主は言ったのだ。

 『結婚する』と。

 それを境に主は変わった。
 元々柔らかい話し方をする気性の優しい御仁であったのに、今では陰湿そうに背を丸め話す端々に皮肉が混じるようになった。
 なにもかもを警戒するように周りを濁った目で睨みつけるようになり、命令も増えた。

 可哀想だと女に同情する刀剣も居たが、あまりの主の変貌に女のせいだと蔑むようになった者も少なからずいた。
 長谷部は後者であったが、それを表に出すことはなかった。
 近侍だったからだ。 

 主は女を妻にすると言った。
 仕える者として長谷部に異存は無い。
 古くからそういうものであるからだ。
 臣下が意を唱えるべきことですらない。
 
 長谷部はただその思いだけで主に仕えた。
 たとえ腹の奥底ではぐらぐらと煮だった苛立ちが固まりになって溢れそうになっていたとしても。

 近侍部屋は、主――審神者の部屋に直結されている。
 襖でさえぎられているだけだ。
 
 主は女を部屋に囲った。 
 部屋からは庭が見え、四季折々の景色で本丸の主を楽しませるように図られていたのだが、女をそこに閉じ込めるようになってからは一度として開けられたことは無い。

 へし切長谷部と言う刀は、実に忠義に厚い男だった。
 悲鳴や打音で煩かろうが、襖が少し開いていようが――そこでどんな理不尽なことが行われているのか知りながら決して主に異議を申し立てなかった。
 次第に主は見せ付けるかのように振舞い始めたが、どれだけ見せられても近侍である長谷部は反応を示さなかった。

「貴方はただ見てるだけだった。……声すらかけなかった」

 女は反吐が出そうだとでも言いたげに顔を歪ませる。

 ただ、視線が合うだけ。

 それは苦痛極まりない行為であった以上に、女を絶望に叩き落した。

「毎晩毎晩毎晩毎晩。とんだ悪趣味ですよね。本っ当最低……ああ、このまま帰ったら襲われたとでも言いましょうか。そしたら貴方、刀解されるのでは?」

 女はこれ以上面白いことなどないというふうに笑うが、長谷部はさして驚かない。
 だが誤魔化すためか拳は固く握られていた。

「そんな法螺、主が信じるものか」

 女は馬鹿にしたように笑った。

「信じますよ! わかるでしょう! 私に裁縫箱をくれたあの子を! ただ手が触れたというだけで刀解したひとですよ!」

 幾分、苦味が勝ったような顔で長谷部は歯をかみ締める。
 その様子は女にとって笑いの種にしかならなかった。

「そんな顔するなら早く殺せばいいじゃないですか。むしろそのほうがあの人のためなんじゃないですか? 結婚したらどんな手を使ってでも不幸にしますよ私。……絶対に」

 女にとって逃げ切ることが最良だ。
 囚われたらあの男の妻として一生そばに居て一生苦しんで死んでからすらも同じ墓に入らなければならないからだ。
 ならばこの場で討ち捨てられたほうがどれだけマシか。

(私からすべて奪おうというなら私だって――)

 一番の臣下に情人を殺されて苦しめばいい。
 思うとおりにならないことを知ればいい。
 そして目の前の男は、そんな主に討ち捨てられればいい。

 そんな望みを抱くほど、女はすでに身も心も疲れていた。

「ほら早く。腰のそれを引き抜いて当てればいいんです。へしきりという名の由来の通りに」

 笑う女が火種になって腹立たしさが怒りに変る。

 腹の奥底が燃るかのように熱くなり、長谷部は歯を食いしばった。

(本当に殺してやろうか)

 己を殺してくれとはなんて甘えた女なのだろう。
 腹を刺したその鋏で己の首でも刺せばいいではないか。

『あれをなんとしてでも連れ戻せ――!!!!』

 それが主からもたらされた命であり、それを遂行するために遣わされた自分に、「己を殺せ」と言う女を長谷部は全く理解できなかった。

 確かにこの女が死ねば心は晴れるかもしれないと長谷部は思う。
 しかし主が怒り狂うのは解りきったことだ。

(ああ、でも――)

 もうすぐ主は長谷部の主ではなくなる。
 代替わりするのだ。
 元々中継ぎであった今代の主は役目を終えて、本来の主が引き継ぐ。
 今日はまさにその引き継ぎがされる日だった。

 主は引継ぎを終えた後そのまま元居た時代へと帰る手はずになっている。――目の前の女と供に。
 女が逃げたのは、今を逃せばもう機会は訪れないと知っていたからに過ぎない。
 それを誰もがわかっていたから、女が逃げた時はどの刀剣も何も言わなかった。

(……何を考えている。さっさと女を連れて行かなければならないのに)

 次の主が来ようとも、長谷部の主であったことは覆せない。
 この女が主に犯されたのを無かったことにできないように。

 いくらか哀れだと思っているのだろうか。
 長谷部の体は微かばかりも動かない。
 女もすでに逃げる気はないようで、瞼をすっと伏せた。
 まるで死の訪れを待っているかのような風体に、長谷部はぎりっと歯軋りした。

(こんな馬鹿な女よりも主にはもっとふさわしい女がいる。元の時代へお帰りになれば、いや別の女であればあのようにはなるまい。……そうだ)

 この女だけだったのだ。
 ――腹立たしい。

 己の主を変貌させたからか。
 女の悲鳴が耳から離れないからか。

 はたまた乱れた姿が下品で吐き気を催すからか。
 愚かなこの女が逃げるから、己が借り出されているこの状況にか。

 苛立ちはそのすべてが原因のようだった。
 しかし、一方でどれもが間違っているように思えた。

 ふと女の顔から視線を下ろすと、胸部に目が止まった。
 出会った頃よりも細くなったからだのわりに、胸が大きくなっている。
 その意味することに長谷部の腹が熱くなり無意識に舌打ちした。

 己の主を堕落させ、己さえも苛立たせ翻弄する。
 長谷部は目の前の女が憎く思えた。

「!」

 すらりと手を伸ばし、首を捕らえる。
 薄く目を開いた女は抵抗しなかった。

(細い首だ。捻れば死ぬ)

 刀すら使うのも煩わしい。

 長谷部が力を込めようとしたとき、女が笑った。

Posted by aco